読んでもためにならない日記
今後は、時事ニュースについて、それぞれの感想を書いていきます
死者の結婚式 59-2
**
今、櫻井は、少し後悔していた。三月の中旬頃から、智美は誰かの視線を感じていたことはわかったが、同時に彼女の心的履歴を知ることは心が重かった。
櫻井は智美を理解しているつもりだったが、日記を読み進めていくうちに、少しずつそれが崩れてゆくような気がする。智美を失った悲しみの上に、それが重なってくるのだ。 このまま読んでいけば、その重さに押し潰されてしまいそうながら、智美は、何故、殺されたのか、日記の中にヒントがあれば、それを明らかにしたいと、目をつぶるような思いで観念した。パラパラとページを繰る。
一年前の四月十二日
尚輝さんと映画「花様年華」を一緒に見に行った。舞台は、一九六二年の香港。出張ばかりの夫を持つ妻と、夜勤の多い妻を持つ夫はいつしか互いに好意を抱き始め、やがて二人は互いのパートナーの情事に気付く…、という内容。
互いの思いに身体を預けきれない男と女を描いた大人の映画って気がしたけど、今だっ
今、櫻井は、少し後悔していた。三月の中旬頃から、智美は誰かの視線を感じていたことはわかったが、同時に彼女の心的履歴を知ることは心が重かった。
櫻井は智美を理解しているつもりだったが、日記を読み進めていくうちに、少しずつそれが崩れてゆくような気がする。智美を失った悲しみの上に、それが重なってくるのだ。 このまま読んでいけば、その重さに押し潰されてしまいそうながら、智美は、何故、殺されたのか、日記の中にヒントがあれば、それを明らかにしたいと、目をつぶるような思いで観念した。パラパラとページを繰る。
一年前の四月十二日
尚輝さんと映画「花様年華」を一緒に見に行った。舞台は、一九六二年の香港。出張ばかりの夫を持つ妻と、夜勤の多い妻を持つ夫はいつしか互いに好意を抱き始め、やがて二人は互いのパートナーの情事に気付く…、という内容。
互いの思いに身体を預けきれない男と女を描いた大人の映画って気がしたけど、今だっ
死者の結婚式 59-1
事に遭遇した。あれは、私の思い過ごしだろうか。
ふと、背中に視線を感じ、私は後ろを振り向いた。しかし、ビル内の通路を行き交う通行人の姿があるだけで、何事もなかった。私の気のせいだったのだろうか。
いや、違う。誰かに見られているという視線を確かに感じたのだ。あー怖い。きっと変態だわ。気をつけよう。
三月十五日
今日は、野川さんと一緒に、病院ヘお見舞いに行った。思ったより元気そうで良かった。病院という所は、健康な者でも長くいると病気になりそうで、私は好きじゃない。病院が好きだという弟の感覚が、私にはわからない。弟は、薬が好きだから…。
尚輝さんは、あんなこと言っていたけど、心の中では気にしていると思う。まして尚輝さんの場合は、唯一の肉親と言ったら父親しかいないわけだから、失踪した理由が何であれ、心の中で引っかかっているはず。あんな強がりを言うことなんかないのよ。
どうして、もっと素直になれないのかしら。花のことだって、そうよ。鷹西さんって人がどんな人か知らないけど、あんなにムキになることはないのよ。でも私の言動が尚輝さんをムキにならせたとしたら、謝るわ。ごめんなさい。
正直、鷹西さんって人のことが気になったのかもしれない。噂で、誰かが会社のコンピューターに侵入しようとしているらしいってことは知っていたけど、それと鷹西さんとはどういう関係があるのかしら。
尚輝さんは、全然話してくれないからわからないわ。最近、私達、以前より会話が少なくなったような気がする。
ふと、背中に視線を感じ、私は後ろを振り向いた。しかし、ビル内の通路を行き交う通行人の姿があるだけで、何事もなかった。私の気のせいだったのだろうか。
いや、違う。誰かに見られているという視線を確かに感じたのだ。あー怖い。きっと変態だわ。気をつけよう。
三月十五日
今日は、野川さんと一緒に、病院ヘお見舞いに行った。思ったより元気そうで良かった。病院という所は、健康な者でも長くいると病気になりそうで、私は好きじゃない。病院が好きだという弟の感覚が、私にはわからない。弟は、薬が好きだから…。
尚輝さんは、あんなこと言っていたけど、心の中では気にしていると思う。まして尚輝さんの場合は、唯一の肉親と言ったら父親しかいないわけだから、失踪した理由が何であれ、心の中で引っかかっているはず。あんな強がりを言うことなんかないのよ。
どうして、もっと素直になれないのかしら。花のことだって、そうよ。鷹西さんって人がどんな人か知らないけど、あんなにムキになることはないのよ。でも私の言動が尚輝さんをムキにならせたとしたら、謝るわ。ごめんなさい。
正直、鷹西さんって人のことが気になったのかもしれない。噂で、誰かが会社のコンピューターに侵入しようとしているらしいってことは知っていたけど、それと鷹西さんとはどういう関係があるのかしら。
尚輝さんは、全然話してくれないからわからないわ。最近、私達、以前より会話が少なくなったような気がする。
死者の結婚式 58-2
尚輝さんの交通事故のことで、警察の人が会社に来ていた。尚輝さんに恨みを持つ者の仕業ではないかということで、会社の人にも事情を聞きに来たらしい。噂では、それは上村部長や桐島さんらしいと言うことなんだけど、まさかと思う。
上村さんが尚輝さんのことを殺したいほど憎んでいるなんて、あるかしら。今まで私が付き合った限りでは、そんな風に感じたことはないし、もし、あるとしたら、私にはわからない。桐島さんも同じで、私にはわからない。
ただ桐島さんは、以前から私に交際を申し込んでいて、その度に断ってきた。気持ちは嬉しいけど、私には尚輝さんがいることだし、早く諦めてくれないかしらと思う。
**
(野川の言うとおりだった。桐島は、智美のことが好きだったのだ。研修会の日、偶然、窓から二人の姿を見たが、あの時に智美の見せた迷惑そうな表情というのは、このことだったに違いない)
三月十六日
昨日の夜から、会社へ行きたくないなという気持ちが澎湃と広がり、そのまま朝を迎え、今日は頭痛がすると言って会社を休んだ。ズル休みだった。
たまには、いいじゃない! と、自分に言い訳する。午前中、また布団に入り、午後は靴を買いに錦糸町の駅ビルへ行った。気に入った靴が見当たらなかったが、その時、妙な
上村さんが尚輝さんのことを殺したいほど憎んでいるなんて、あるかしら。今まで私が付き合った限りでは、そんな風に感じたことはないし、もし、あるとしたら、私にはわからない。桐島さんも同じで、私にはわからない。
ただ桐島さんは、以前から私に交際を申し込んでいて、その度に断ってきた。気持ちは嬉しいけど、私には尚輝さんがいることだし、早く諦めてくれないかしらと思う。
**
(野川の言うとおりだった。桐島は、智美のことが好きだったのだ。研修会の日、偶然、窓から二人の姿を見たが、あの時に智美の見せた迷惑そうな表情というのは、このことだったに違いない)
三月十六日
昨日の夜から、会社へ行きたくないなという気持ちが澎湃と広がり、そのまま朝を迎え、今日は頭痛がすると言って会社を休んだ。ズル休みだった。
たまには、いいじゃない! と、自分に言い訳する。午前中、また布団に入り、午後は靴を買いに錦糸町の駅ビルへ行った。気に入った靴が見当たらなかったが、その時、妙な
死者の結婚式 58-1
お互い何でも理解し合える仲だとは思うけど、それとこれとは別。私も優子を応援する。喫茶店で話した後、飲みに行った。
相変わらず、優子は酒に強い。私も釣られて飲んでしまい、新小岩の駅に着いた時には、十二時を回っていた。さすがにこの時間になると、人通りも少なくなり、寂しい。
とぼとぼ歩いていると、急に誰かに跡をつけられているような気がして、急ぎ足で家に向かった。心臓に良くない。一体、どういうことなんだろう。薄気味悪い。考えてみれば、こんな事が起こるようになったのは、初めて尚輝さんのお見舞いに行った時からだから、もう二ヶ月近くになる。よくわからない。
今度、尚輝さんに相談してみよう。
**
櫻井は、二日分を読んだところで、大学ノートから眼を上げた。智美は、二ヶ月前から、誰かに跡をつけられているような気がしていたという。日記にも書いてあったが、一体、どういうことなんだろう。
櫻井はページを繰り、三月頃に書かれた日記に目を通していった。
三月十七日
相変わらず、優子は酒に強い。私も釣られて飲んでしまい、新小岩の駅に着いた時には、十二時を回っていた。さすがにこの時間になると、人通りも少なくなり、寂しい。
とぼとぼ歩いていると、急に誰かに跡をつけられているような気がして、急ぎ足で家に向かった。心臓に良くない。一体、どういうことなんだろう。薄気味悪い。考えてみれば、こんな事が起こるようになったのは、初めて尚輝さんのお見舞いに行った時からだから、もう二ヶ月近くになる。よくわからない。
今度、尚輝さんに相談してみよう。
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櫻井は、二日分を読んだところで、大学ノートから眼を上げた。智美は、二ヶ月前から、誰かに跡をつけられているような気がしていたという。日記にも書いてあったが、一体、どういうことなんだろう。
櫻井はページを繰り、三月頃に書かれた日記に目を通していった。
三月十七日
死者の結婚式 57-2
鷹西あおいさんって、どんな人だろう。初めて病院へ尚輝さんのお見舞いに行った時に、その名前を聞いたけど、本当に何でもないのかしら。尚輝さんは、仕事の関係だと言っていたけど…。あの時のお花、とても綺麗だった。その印象が強いために、変な話、時々思い出してしまう。尚輝さんって、案外無頓着だと思った。
鷹西さんって、仕事ができて、異性にも、もてそうな気がする。尚輝さんの気持ちが変わったらどうしよう、なんてバカなことを考える私。でも、ほんとにバカなことだろうか?
今日は、帰りにマツキヨに寄った。いつも使っているシャンプーが残り少なくなったので早めに買いに行ったら、特売していた。得した気分になった。
五月九日
今日は友達の優子と久し振りに会った。お互い仕事が忙しく、なかなか会えなかったが、彼氏のことで相談に乗って欲しいというので、銀座で待ち合わせることにした。優子の彼氏は、なかなかのハンサムで、私も会ったことがあるんだけど、その彼が、最近、転職したいって言っているとのこと。
優子の話によると、会社を辞めて、自分で何か仕事がしたいってことらしい。そんなの絶対うまくいかないからという理由で、優子は反対している。優子は彼氏と結婚したいと思っているから、彼氏の行動が理解できないとも言っていた。
私も優子の立場だったら、不安だと思う。彼氏とは優子が大学の時からの付き合いで、
鷹西さんって、仕事ができて、異性にも、もてそうな気がする。尚輝さんの気持ちが変わったらどうしよう、なんてバカなことを考える私。でも、ほんとにバカなことだろうか?
今日は、帰りにマツキヨに寄った。いつも使っているシャンプーが残り少なくなったので早めに買いに行ったら、特売していた。得した気分になった。
五月九日
今日は友達の優子と久し振りに会った。お互い仕事が忙しく、なかなか会えなかったが、彼氏のことで相談に乗って欲しいというので、銀座で待ち合わせることにした。優子の彼氏は、なかなかのハンサムで、私も会ったことがあるんだけど、その彼が、最近、転職したいって言っているとのこと。
優子の話によると、会社を辞めて、自分で何か仕事がしたいってことらしい。そんなの絶対うまくいかないからという理由で、優子は反対している。優子は彼氏と結婚したいと思っているから、彼氏の行動が理解できないとも言っていた。
私も優子の立場だったら、不安だと思う。彼氏とは優子が大学の時からの付き合いで、
死者の結婚式 57-1
たのですが、あの子がこれまで生きた証として、これはそのまま残しておくことにしました」
櫻井は、それを母親の手から受け取りながら、
「では、少しの間、お借りするということで預からせて頂きます」
と応えた。
6
櫻井は、自分の部屋で日記のページを開いた。最初に眼に飛び込んだのは、一枚の写真だった。雨上がりの後か、それとも明け方だろうか。海上に浮かぶ雲の隙間から光が射し込んでいる。
日記に貼られた写真の下のほうには、「天使の梯子」を見たことがありますか? と書かれ、括弧して、「ヤコブの梯子」と書いてあった。旧約聖書に、ヤコブが石を枕に寝た時、天に通じる階段ができて、そこを天使が行き交う夢を見た、とある。
その光景は、まるで梯子のように思えることから、そう呼んだのであろう。智美も「天使の梯子」の意味を知っていたに違いない。
最後の日付は、五月十一日であった。
**
五月十一日
櫻井は、それを母親の手から受け取りながら、
「では、少しの間、お借りするということで預からせて頂きます」
と応えた。
6
櫻井は、自分の部屋で日記のページを開いた。最初に眼に飛び込んだのは、一枚の写真だった。雨上がりの後か、それとも明け方だろうか。海上に浮かぶ雲の隙間から光が射し込んでいる。
日記に貼られた写真の下のほうには、「天使の梯子」を見たことがありますか? と書かれ、括弧して、「ヤコブの梯子」と書いてあった。旧約聖書に、ヤコブが石を枕に寝た時、天に通じる階段ができて、そこを天使が行き交う夢を見た、とある。
その光景は、まるで梯子のように思えることから、そう呼んだのであろう。智美も「天使の梯子」の意味を知っていたに違いない。
最後の日付は、五月十一日であった。
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五月十一日
死者の結婚式 56-2
母親は、目を伏せながら、
「正直に申し上げると、二人の結婚については、最初、心配しておりました。でも今日初めてお会いして、私の取り越し苦労だったことがわかりました。娘の言ったとおりでした。それなのに、こんなことになってしまって…」
「智美さんが殺されるような理由が僕には思い浮かばないんです。誰かの恨みを買っていたとも思えないし…」
「恨み? あの子に限ってそんなことはありません。小さい頃から苦労して育ったんです。弟と二人きょうだいですが、弟の面倒もよくみていました。思いやりのある、優しい子です」
「ええ、それは、よくわかっています。だからわからないんです」
「お役に立てなくてすいません。あっ、そういえばー」
母親は何かを思い出したらしく、急に立ち上がって居間から出て行った。すぐに戻って来ると、手に数冊のノートを持っていた。ありふれた大学ノートだった。
「あの子は日記をつけていたようなんです。亡くなってから身の回りを整理していたら、机の中から出て来たんです。あの子の形見として、どうぞ受け取って下さい」
「そんな大切なものを、僕なんかが受け取っていいんですか」
「あの子の気持ちは、この中に生きています。棺の中に一緒に入れてしまおうかとも思っ
「正直に申し上げると、二人の結婚については、最初、心配しておりました。でも今日初めてお会いして、私の取り越し苦労だったことがわかりました。娘の言ったとおりでした。それなのに、こんなことになってしまって…」
「智美さんが殺されるような理由が僕には思い浮かばないんです。誰かの恨みを買っていたとも思えないし…」
「恨み? あの子に限ってそんなことはありません。小さい頃から苦労して育ったんです。弟と二人きょうだいですが、弟の面倒もよくみていました。思いやりのある、優しい子です」
「ええ、それは、よくわかっています。だからわからないんです」
「お役に立てなくてすいません。あっ、そういえばー」
母親は何かを思い出したらしく、急に立ち上がって居間から出て行った。すぐに戻って来ると、手に数冊のノートを持っていた。ありふれた大学ノートだった。
「あの子は日記をつけていたようなんです。亡くなってから身の回りを整理していたら、机の中から出て来たんです。あの子の形見として、どうぞ受け取って下さい」
「そんな大切なものを、僕なんかが受け取っていいんですか」
「あの子の気持ちは、この中に生きています。棺の中に一緒に入れてしまおうかとも思っ
死者の結婚式 56-1
でもあり、それが却って櫻井には辛かった。
線香に火をつける。手を合わせながら、智美は、もう二度と戻って来ないことを改めて実感した。
母親の、お茶が入りましたから、どうぞ、という声に櫻井は我に返った。立ち上がって居間に戻ると、テーブルの上にお茶が置かれていた。櫻井は礼を言うと、それをすすりながら、母親に訊いた。
「ところで、最近智美さんに何か変わった様子はありませんでしたか? 例えば誰かに跡をつけられているとか、そんなことをお聞きになったことはありませんか?」
「え! そんなことがあったんですか?」
「事実かどうかはわかりませんが、智美さんは、そんな気がすると言っていました」
「あの子は、そういう話は私にはしないんです。意志の強い子でしたから、親に心配をかけたくないと思ったんだと思います。そのぶん逆に櫻井さんには、ご迷惑をかけてしまったかもしれませんね」
「とんでもありません。お互い似た境遇でしたから、話しやすかったんだと思います。跡をつけられているような気がすると言うので、一昨日は一緒に帰る約束をしていたんです。それが、こんな事になるなんて…」
「そんなにご自分を責めないで下さい。あの子は、櫻井さんと出逢えて幸せだったと思います。その前は、いろいろありましたからね。やっと普通のお付き合いをしてくれるようになって、私もほっとしていたんです」
母親は、目を伏せながら
線香に火をつける。手を合わせながら、智美は、もう二度と戻って来ないことを改めて実感した。
母親の、お茶が入りましたから、どうぞ、という声に櫻井は我に返った。立ち上がって居間に戻ると、テーブルの上にお茶が置かれていた。櫻井は礼を言うと、それをすすりながら、母親に訊いた。
「ところで、最近智美さんに何か変わった様子はありませんでしたか? 例えば誰かに跡をつけられているとか、そんなことをお聞きになったことはありませんか?」
「え! そんなことがあったんですか?」
「事実かどうかはわかりませんが、智美さんは、そんな気がすると言っていました」
「あの子は、そういう話は私にはしないんです。意志の強い子でしたから、親に心配をかけたくないと思ったんだと思います。そのぶん逆に櫻井さんには、ご迷惑をかけてしまったかもしれませんね」
「とんでもありません。お互い似た境遇でしたから、話しやすかったんだと思います。跡をつけられているような気がすると言うので、一昨日は一緒に帰る約束をしていたんです。それが、こんな事になるなんて…」
「そんなにご自分を責めないで下さい。あの子は、櫻井さんと出逢えて幸せだったと思います。その前は、いろいろありましたからね。やっと普通のお付き合いをしてくれるようになって、私もほっとしていたんです」
母親は、目を伏せながら
死者の結婚式 55-2
「櫻井と申します。亡くなった智美さんとは親しくさせて頂いておりました」
とインターホンに向かって言うと、しばらくしてドアが開いた。生きていれば、ちょうど櫻井の母親と同じくらいの年齢の女性がそこに立っていた。どちらかといえば小柄で、顔の輪郭や目元が亡くなった智美に似ている。母親が微笑した。
「どうぞ、お入りになって下さい」
3LDKの部屋だった。母親は、窓際の居間に通してくれた。座布団を用意しながら、
「娘から、お噂は聞いています。しっかりしていて、自分の考えも持っているって褒めていました」
「はあ」
櫻井は苦笑しながら、頭をかいた。
「今、お茶を入れますから。どうぞ膝を崩して、もっと気楽にして下さい」
「いえ、お構いなく。それよりも智美さんの供養をしたいのですが…」
「ありがとうございます。きっと娘も喜ぶと思います」
櫻井は、仏壇のある部屋に通された。仏壇の前に腰を下ろすと、じっと遺影を見つめた。写真の中の智美は微笑んで、穏やかな表情をしている。生前の頃の豊かな情景が浮かんでくると同時に、私のことは早く忘れて、他にいい人を見つけて下さい、と言っているよう
とインターホンに向かって言うと、しばらくしてドアが開いた。生きていれば、ちょうど櫻井の母親と同じくらいの年齢の女性がそこに立っていた。どちらかといえば小柄で、顔の輪郭や目元が亡くなった智美に似ている。母親が微笑した。
「どうぞ、お入りになって下さい」
3LDKの部屋だった。母親は、窓際の居間に通してくれた。座布団を用意しながら、
「娘から、お噂は聞いています。しっかりしていて、自分の考えも持っているって褒めていました」
「はあ」
櫻井は苦笑しながら、頭をかいた。
「今、お茶を入れますから。どうぞ膝を崩して、もっと気楽にして下さい」
「いえ、お構いなく。それよりも智美さんの供養をしたいのですが…」
「ありがとうございます。きっと娘も喜ぶと思います」
櫻井は、仏壇のある部屋に通された。仏壇の前に腰を下ろすと、じっと遺影を見つめた。写真の中の智美は微笑んで、穏やかな表情をしている。生前の頃の豊かな情景が浮かんでくると同時に、私のことは早く忘れて、他にいい人を見つけて下さい、と言っているよう
死者の結婚式 55-1
もならないんだ」
櫻井は、胸が痛んだ。智美が殺されたというのに、まだ何の手がかりもない。
「そろそろ帰ろうか」
「そうだな。これからどうする?」
「挨拶も兼ねて一ノ瀬さんの家に寄って行こうかと思っている」
「その時に、最近何か変わったことがなかったか、聞いてみたらどうだ?」
「ああ、そうするよ」
「俺はマッサージをしてもらいに行く。何だかこの頃、肩が重くて鬱陶しいんだ」
二人は、坂で滑りやすい砂利道をよけながら、来た道を引き返した。
5
智美が住んでいたマンションは、新小岩駅南口の公園の近くにあった。十階建てのマンションに母親と二人で暮らしていた。弟は、高円寺に部屋を借りて住んでいるということを以前、智美から聞いたことがあった。
玄関に並ぶ郵便受けで、一ノ瀬の名前を確認してから、エレベーターで六階に上がった。蛍光灯の光る廊下を歩く。六〇四号室の前まで来ると、ネクタイを結び直し、髪を直した。 智美の母親に会うのは、今日が初めてだった。ベルを押す。耳を澄ましていると、部屋の中で人の動く気配がした。
「はい、どなたですか」
櫻井は、胸が痛んだ。智美が殺されたというのに、まだ何の手がかりもない。
「そろそろ帰ろうか」
「そうだな。これからどうする?」
「挨拶も兼ねて一ノ瀬さんの家に寄って行こうかと思っている」
「その時に、最近何か変わったことがなかったか、聞いてみたらどうだ?」
「ああ、そうするよ」
「俺はマッサージをしてもらいに行く。何だかこの頃、肩が重くて鬱陶しいんだ」
二人は、坂で滑りやすい砂利道をよけながら、来た道を引き返した。
5
智美が住んでいたマンションは、新小岩駅南口の公園の近くにあった。十階建てのマンションに母親と二人で暮らしていた。弟は、高円寺に部屋を借りて住んでいるということを以前、智美から聞いたことがあった。
玄関に並ぶ郵便受けで、一ノ瀬の名前を確認してから、エレベーターで六階に上がった。蛍光灯の光る廊下を歩く。六〇四号室の前まで来ると、ネクタイを結び直し、髪を直した。 智美の母親に会うのは、今日が初めてだった。ベルを押す。耳を澄ましていると、部屋の中で人の動く気配がした。
「はい、どなたですか」
死者の結婚式 54-2
「何かが、そこにあったんだと思う」
と野川が言った。
「何だと思う?」
「さあー。警察だって付近を調べたはずだ。それでも見つからなかったということは、犯人が持ち去ったのかもしれない。問題は、そこに何があったかだな」
「ひょっとしたら、放火の手がかりになるようなものかもしれないということか」
「それも有り得るだろうな」
「三階の非常口のガラスが割れていたけど、何故、上村部長は、そんな音にも気付かなかったんだろう。僕には、それがとても不思議なんだ」
「お前は、どうなんだ?」
「僕は智美のことで頭が一杯で、ひょっとしたら、そういう音がしたかもしれないが、よく覚えていないんだ。僕より上村部長のほうがビルの中にいた時間が長いわけだから、そういう音を聞いたとしても不思議ではないと思うんだがな」
「俺も、部長は何かを隠していると思う。大体、あのビルの中で一時間も何をしていたんだ。おかしいよ」
「君もそう思うか。保科刑事も疑っていたけど、はっきりとした証拠がない以上、どうに
と野川が言った。
「何だと思う?」
「さあー。警察だって付近を調べたはずだ。それでも見つからなかったということは、犯人が持ち去ったのかもしれない。問題は、そこに何があったかだな」
「ひょっとしたら、放火の手がかりになるようなものかもしれないということか」
「それも有り得るだろうな」
「三階の非常口のガラスが割れていたけど、何故、上村部長は、そんな音にも気付かなかったんだろう。僕には、それがとても不思議なんだ」
「お前は、どうなんだ?」
「僕は智美のことで頭が一杯で、ひょっとしたら、そういう音がしたかもしれないが、よく覚えていないんだ。僕より上村部長のほうがビルの中にいた時間が長いわけだから、そういう音を聞いたとしても不思議ではないと思うんだがな」
「俺も、部長は何かを隠していると思う。大体、あのビルの中で一時間も何をしていたんだ。おかしいよ」
「君もそう思うか。保科刑事も疑っていたけど、はっきりとした証拠がない以上、どうに
死者の結婚式 54-1
「危険な思想だけど、わかるよ、その気持ち。俺だって小夜子さんが殺されたら、同じ事を言うと思う。俺も手伝うよ。ただ、お互い仕事があるから、休みの日とか、平日でも仕事の空いた時でないと動けないな」
と言って野川は、ポケットからマイルドセブンを出して喫った。そして眩しそうに陽に透いた煙の中で眼を細めた。櫻井も頷きながら、別のことを考えていた。侵入者が残した予告状の五月二十二日までには、あと七日しかない。
本当は、この七日間会社を休んで、いろいろ調べたかった。だが、休めそうになかった。
顔を上げて野川の方を向いた時だった。不意に男の人影が目に入った。少し離れたところにある墓石に隠れてこちらを伺っている様子だったが、櫻井がそのことに気付くと、男はさっと身を隠し、そのままどこかへ消えてしまった。
「どうしたんだ?」
と野川が振り返りながら訊いた。
「いや、何でもない。それより、今度、時間の空いた時に放火されたという倉庫を見てみないか。それと日本医療ネットアソシエイツにも行って、何故、配達ミスを犯したか、具体的に話を聞きたいと思っているんだがー」
「そうだな」
「これは聞いた話だが、焼けた会議室の中で、一ヶ所だけ焼けていないところが見つかったそうだ」
櫻井は指で長方形の大きさを示しながら、江原に聞いたことを野川にも話した。
「君は、どう思う?」
と言って野川は、ポケットからマイルドセブンを出して喫った。そして眩しそうに陽に透いた煙の中で眼を細めた。櫻井も頷きながら、別のことを考えていた。侵入者が残した予告状の五月二十二日までには、あと七日しかない。
本当は、この七日間会社を休んで、いろいろ調べたかった。だが、休めそうになかった。
顔を上げて野川の方を向いた時だった。不意に男の人影が目に入った。少し離れたところにある墓石に隠れてこちらを伺っている様子だったが、櫻井がそのことに気付くと、男はさっと身を隠し、そのままどこかへ消えてしまった。
「どうしたんだ?」
と野川が振り返りながら訊いた。
「いや、何でもない。それより、今度、時間の空いた時に放火されたという倉庫を見てみないか。それと日本医療ネットアソシエイツにも行って、何故、配達ミスを犯したか、具体的に話を聞きたいと思っているんだがー」
「そうだな」
「これは聞いた話だが、焼けた会議室の中で、一ヶ所だけ焼けていないところが見つかったそうだ」
櫻井は指で長方形の大きさを示しながら、江原に聞いたことを野川にも話した。
「君は、どう思う?」
死者の結婚式 53-2
櫻井は、屋根の上で見つけた小さな鈴を見せた。
「この『若松』という意味が問題だな。少しは調べたんだろ」
「ああ。とりあえずインターネットで検索してみたら、いろいろ出て来たよ。会津若松の若松城、都営大江戸線の若松河田駅、北九州市の若松あじさい祭り、北九州市若松区にある若松天使幼稚園、成田市にある若松旅館、身延山久遠寺にある若松屋仏具店…」
「まだ、あるのか?」
「ああ」
「何だか雲を掴むような話だな。このことを警察には話したのか?」
「いや、とっさに自分のポケットに仕舞ったんだ」
「何故?」
「わからない。自分の手で、犯人を捕まえ殺してやりたいと思ったからかもしれない。警察に言ってしまうことで、それが警察任せになってしまって智美に対する責任逃れのような気がしたんだ」
「しかし、刑事でもない俺達が、どうやって犯人を捕まえるんだよ」
「公務員ゆえにできないことってあると思うんだ。僕はね、智美のためには卑怯なこと、汚いこと、何でも構わない、息のある限りやってやるぞ、って思っているんだ」
「この『若松』という意味が問題だな。少しは調べたんだろ」
「ああ。とりあえずインターネットで検索してみたら、いろいろ出て来たよ。会津若松の若松城、都営大江戸線の若松河田駅、北九州市の若松あじさい祭り、北九州市若松区にある若松天使幼稚園、成田市にある若松旅館、身延山久遠寺にある若松屋仏具店…」
「まだ、あるのか?」
「ああ」
「何だか雲を掴むような話だな。このことを警察には話したのか?」
「いや、とっさに自分のポケットに仕舞ったんだ」
「何故?」
「わからない。自分の手で、犯人を捕まえ殺してやりたいと思ったからかもしれない。警察に言ってしまうことで、それが警察任せになってしまって智美に対する責任逃れのような気がしたんだ」
「しかし、刑事でもない俺達が、どうやって犯人を捕まえるんだよ」
「公務員ゆえにできないことってあると思うんだ。僕はね、智美のためには卑怯なこと、汚いこと、何でも構わない、息のある限りやってやるぞ、って思っているんだ」
死者の結婚式 53-1
「その時に一ノ瀬さんを殺そうとして揉み合いになったんだ。一ノ瀬さんは、あいつが持っていたディスクを奪うなどして、激しく抵抗したんだと思う」
「何故、桐島君が智美を殺さなければいけないんだ。今、言ったことと矛盾するじゃないか」
櫻井は、線香に火をつけながら訊いた。
「矛盾はしないさ。屋根の上にディスクが落ちていたのが何よりの証拠だし、一ノ瀬さんに相手にされなくて、それでカッとなって殺したんだと思う。こんなところで考えてないで、とっつかまえて白状させればいいんだ。そのほうが手っ取り早いと思わないか」
「乱暴だな。ディスクを運んだのは確かに桐島君だ。そのディスクが殺された智美の傍に落ちていたということは、桐島君が疑われても仕方がないと思うが、彼にはアリバイがある。智美が殺された時間には、避難場所にいたんだ」
「アリバイ…か」
「君は、智美からストーカーじみた人物がいることを聞いたことがなかったか」
「初耳だな。それが今度の事件と何か関係でもあるのか?」
「わからない。智美の話だと、僕が入院した時かららしいんだ」
「花のことと言い、おかしな話だな。ひょっとしたら、一ノ瀬さんが殺されたことと、君の交通事件とは何か関係があるかもしれないな。今の話を聞いていたら、そんな気がしてきたよ」
「刑事も同じようなことを言っていたけど、僕は違うような気がする。今日は、君に見せたい物があって持って来たんだ」
「何故、桐島君が智美を殺さなければいけないんだ。今、言ったことと矛盾するじゃないか」
櫻井は、線香に火をつけながら訊いた。
「矛盾はしないさ。屋根の上にディスクが落ちていたのが何よりの証拠だし、一ノ瀬さんに相手にされなくて、それでカッとなって殺したんだと思う。こんなところで考えてないで、とっつかまえて白状させればいいんだ。そのほうが手っ取り早いと思わないか」
「乱暴だな。ディスクを運んだのは確かに桐島君だ。そのディスクが殺された智美の傍に落ちていたということは、桐島君が疑われても仕方がないと思うが、彼にはアリバイがある。智美が殺された時間には、避難場所にいたんだ」
「アリバイ…か」
「君は、智美からストーカーじみた人物がいることを聞いたことがなかったか」
「初耳だな。それが今度の事件と何か関係でもあるのか?」
「わからない。智美の話だと、僕が入院した時かららしいんだ」
「花のことと言い、おかしな話だな。ひょっとしたら、一ノ瀬さんが殺されたことと、君の交通事件とは何か関係があるかもしれないな。今の話を聞いていたら、そんな気がしてきたよ」
「刑事も同じようなことを言っていたけど、僕は違うような気がする。今日は、君に見せたい物があって持って来たんだ」
死者の結婚式 52-2
「特にないよ。ブレーキオイルの成分が壁に付着していたのが見つかって、犯人はそこから逃げたということだが、俺にとっちゃ、そんなことはどうでもいいんだ。もっと犯人につながる有力な手がかりが欲しいんだ」
「進展なしか」
「上村部長や桐島君が調べられたって聞いたけど…」
「そんな大袈裟なものじゃないよ。ちょっと聞かれた程度さ。君を殺すような動機が二人にあるとは思えない。ただ、桐島君は一ノ瀬さんに惚れていたから、君の存在が邪魔だったということはあるかもしれないがな」
「まさか! 智美は、そんなこと一言も言ってなかったけどー」
「彼は、感情を表に出すタイプじゃないからわからないだけさ。俺は、二人が話しているところを見たことがあるんだ」
「それで」
「何か一ノ瀬さんに頼んでいる様子だったが、一ノ瀬さんは全然相手にしてないっていう感じで、むしろ迷惑そうな顔をしていたよ」
「それだったら俺も見たことがある。しかしなあ―」
「一ノ瀬さんが殺された事件だけど、俺は、桐島の野郎が怪しいような気がする。あいつは、ディスクを持ち出すために一度コンピュータールームを出ただろう」
「ああ」
「進展なしか」
「上村部長や桐島君が調べられたって聞いたけど…」
「そんな大袈裟なものじゃないよ。ちょっと聞かれた程度さ。君を殺すような動機が二人にあるとは思えない。ただ、桐島君は一ノ瀬さんに惚れていたから、君の存在が邪魔だったということはあるかもしれないがな」
「まさか! 智美は、そんなこと一言も言ってなかったけどー」
「彼は、感情を表に出すタイプじゃないからわからないだけさ。俺は、二人が話しているところを見たことがあるんだ」
「それで」
「何か一ノ瀬さんに頼んでいる様子だったが、一ノ瀬さんは全然相手にしてないっていう感じで、むしろ迷惑そうな顔をしていたよ」
「それだったら俺も見たことがある。しかしなあ―」
「一ノ瀬さんが殺された事件だけど、俺は、桐島の野郎が怪しいような気がする。あいつは、ディスクを持ち出すために一度コンピュータールームを出ただろう」
「ああ」
死者の結婚式 52-1
「或いは、何か悩み事でもあるのかもしれない。この前も言ったと思うけど、思い切って聞いてみたらどうだ。焦ったら、焦った方が負けだ。あまり考え込まないように、何か彼女以外に夢中になるものを見つけたらどうだ。少しは気が紛れるかもしれないぞ。そうだ。この機会に田舎の墓にでもお参りに行ったらどうだ。どうせ、長いこと、行ってないんだろう」
「よく言うよ。櫻井だって行ってないくせに…。でも、それもいいかもしれんな。気分転換になる」
「そうさ。そうしているうちに、彼女の方から君に話してくるよ、きっとね」
「そうだといいんだが…。俺だって、考えていない訳じゃないんだが、いい方法が浮かばなくてね。弱気だと思うかもしれないが、こんな事ばかり考えていると気が滅入ってくるよ。どうだ。一緒に田舎にでも行ってみないか」
「遠慮するよ。今はそんな気持ちになれないんだ」
「それ、見ろ。俺と変わらないじゃないか。こんな時だからこそ、気分転換が必要なんだ。だけど、櫻井が行かないんなら、俺も止める。一人で行ったってつまんないよ。それより、昨日、刑事は何て言ったんだ」
「何のことだ?」
「交通事故のことだよ。俺達が、皆、部屋から出た後、刑事は君に話したんだろ。何か進展があったのか」
「よく言うよ。櫻井だって行ってないくせに…。でも、それもいいかもしれんな。気分転換になる」
「そうさ。そうしているうちに、彼女の方から君に話してくるよ、きっとね」
「そうだといいんだが…。俺だって、考えていない訳じゃないんだが、いい方法が浮かばなくてね。弱気だと思うかもしれないが、こんな事ばかり考えていると気が滅入ってくるよ。どうだ。一緒に田舎にでも行ってみないか」
「遠慮するよ。今はそんな気持ちになれないんだ」
「それ、見ろ。俺と変わらないじゃないか。こんな時だからこそ、気分転換が必要なんだ。だけど、櫻井が行かないんなら、俺も止める。一人で行ったってつまんないよ。それより、昨日、刑事は何て言ったんだ」
「何のことだ?」
「交通事故のことだよ。俺達が、皆、部屋から出た後、刑事は君に話したんだろ。何か進展があったのか」
死者の結婚式 51-2
「あの花は、間違って君に届けられたんじゃない。絶対に誰かが君に送ったものだ」
「仮にそうだとしても、だからどうだって言うんだ。相手から何かアクションでもあれば別だが、何もない以上俺にはどうすることもできないよ」
と言って櫻井は、首をすくめた。
「それより、あの時言っていた礼服を買いに行かなくてもいいのかい?」
「ああ。もういいんだ。一ノ瀬さんが亡くなって、何だか拍子抜けしちまったよ」
「そんなことないだろう。小夜子さんのことで、何か悩んでいることでもあるんじゃないのか」
「馬鹿言え、悩んでなんかいないさ。気にしているだけだ」
「同じ事じゃないのか」
「俺は結婚したいと思っているんだが、それを話すといつもはぐらかすんだ。だから俺に対する気持ちがないのかって、半分ヤケになって聞くと、そうじゃないって言うんだ。じれったくなって、いつまでこんなことをしているつもりなんだと聞いても、はっきり答えないんだ。俺は、女の気持ちがわからなくなったよ」
「ふーん。君でもそう思うことがあるのか。よっぽど小夜子さんのことが好きなんだな。恐らく、今は何か別のことに気持ちが向いているんじゃないのか」
「そうかなあ」
「仮にそうだとしても、だからどうだって言うんだ。相手から何かアクションでもあれば別だが、何もない以上俺にはどうすることもできないよ」
と言って櫻井は、首をすくめた。
「それより、あの時言っていた礼服を買いに行かなくてもいいのかい?」
「ああ。もういいんだ。一ノ瀬さんが亡くなって、何だか拍子抜けしちまったよ」
「そんなことないだろう。小夜子さんのことで、何か悩んでいることでもあるんじゃないのか」
「馬鹿言え、悩んでなんかいないさ。気にしているだけだ」
「同じ事じゃないのか」
「俺は結婚したいと思っているんだが、それを話すといつもはぐらかすんだ。だから俺に対する気持ちがないのかって、半分ヤケになって聞くと、そうじゃないって言うんだ。じれったくなって、いつまでこんなことをしているつもりなんだと聞いても、はっきり答えないんだ。俺は、女の気持ちがわからなくなったよ」
「ふーん。君でもそう思うことがあるのか。よっぽど小夜子さんのことが好きなんだな。恐らく、今は何か別のことに気持ちが向いているんじゃないのか」
「そうかなあ」
死者の結婚式 51-1
ゆっくりと甦ってくる。
一ノ瀬家の墓前に着くと櫻井は手を合わせ、そして墓石の上から水をかけていった。傍で見守っていた野川が、
「一ノ瀬さんの同僚にも聞いてみたんだが、一緒に避難したのは間違いないそうだ。ただ避難している途中で見失ったそうだ。何しろあれだけの社員が一気に階段に押し寄せたわけだから、無理もない気がする」
「その同僚は、どの辺りで見失ったと言っているんだ」
「七階の階段を降りて、すぐだと言っている。その後のことは誰に聞いてもわからないって言うんだ。俺もいろんな人間に当たってみたんだが…」
「その同僚と別行動を取ったということはないのか」
「一緒に避難しているんだから、それはないだろう」
「そうか…」
「ところで、君が入院していた時に届けられた花のことだが、送り主はわかったのかい?」
「いや。送ってきたのは一回だけだったし、結局、わからなかったよ。気にならないと言えば嘘になるが、気にしても仕方がないと思っている。早いもので、あれから二ヶ月か…」
「いい性格だな。俺だったら、気になって仕方がないよ。忘れたいと思っても、忘れられない事ってあると思うんだ。胸のつかえとでも言うのかな。君にはそういうことがないのか」
「――」
一ノ瀬家の墓前に着くと櫻井は手を合わせ、そして墓石の上から水をかけていった。傍で見守っていた野川が、
「一ノ瀬さんの同僚にも聞いてみたんだが、一緒に避難したのは間違いないそうだ。ただ避難している途中で見失ったそうだ。何しろあれだけの社員が一気に階段に押し寄せたわけだから、無理もない気がする」
「その同僚は、どの辺りで見失ったと言っているんだ」
「七階の階段を降りて、すぐだと言っている。その後のことは誰に聞いてもわからないって言うんだ。俺もいろんな人間に当たってみたんだが…」
「その同僚と別行動を取ったということはないのか」
「一緒に避難しているんだから、それはないだろう」
「そうか…」
「ところで、君が入院していた時に届けられた花のことだが、送り主はわかったのかい?」
「いや。送ってきたのは一回だけだったし、結局、わからなかったよ。気にならないと言えば嘘になるが、気にしても仕方がないと思っている。早いもので、あれから二ヶ月か…」
「いい性格だな。俺だったら、気になって仕方がないよ。忘れたいと思っても、忘れられない事ってあると思うんだ。胸のつかえとでも言うのかな。君にはそういうことがないのか」
「――」
死者の結婚式 50-2
記事の下の方に、子供達は蒸発した父を死んだと聞かされて、仏壇に手を合わせてきたと書いてある。裏切った自分を感激して迎えてくれる子供達を前に、父親は申し訳なかったと泣きながら繰り返すしかなかったとも書いてある。
この記事に登場する子供達は偉いなと思う。長い間、まわりから嘘を吐かれ続けたにもかかわらず、父親と再会した時、父親を許している。こんな静かな気持ちに、櫻井はなれるだろうか。
仏壇に手を合わせてきたという言葉に動かされて、智美の墓参りに行こうと思い立った。
4
山の片側を切り崩した斜面には、無数の墓で埋め尽くされている。智美の墓はその中腹にあり、墓に通じる道の両側は、姫女苑が揺れている。
墓参りのことを野川に話したら、俺も行くと言うので、一緒に行くことにした。二人は柄杓と水桶を手に持ちながら、砂利道を登っていく。母親や妹が亡くなった時の記憶が、
この記事に登場する子供達は偉いなと思う。長い間、まわりから嘘を吐かれ続けたにもかかわらず、父親と再会した時、父親を許している。こんな静かな気持ちに、櫻井はなれるだろうか。
仏壇に手を合わせてきたという言葉に動かされて、智美の墓参りに行こうと思い立った。
4
山の片側を切り崩した斜面には、無数の墓で埋め尽くされている。智美の墓はその中腹にあり、墓に通じる道の両側は、姫女苑が揺れている。
墓参りのことを野川に話したら、俺も行くと言うので、一緒に行くことにした。二人は柄杓と水桶を手に持ちながら、砂利道を登っていく。母親や妹が亡くなった時の記憶が、
死者の結婚式 50-1
「可愛いわね」
と言った。櫻井も頷いた。
「ほら、見て! 女の子がアイスクリームの先っぽを落とすのを見て、お父さんが代わりに自分のをあげてるわ」
「ああ」
「それに洋服に付いた汚れも綺麗に拭き取っているし、優しいお父さんだと思わない?」
「ああ」
「父は私が小学校六年の時に亡くなったけど、小さい頃の父はあんな風に優しかったわ。今でも思い出すことがあるの」
「うん」
「何よ、さっきから気のない返事ばかりしてー」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
櫻井は、必死に言い訳を考えようとしたが浮かんでこなかった。
今思うと、父親のことを話している時の智美の表情を見ていたのだと思う。父親…か。櫻井は、急に思い出したように別の引き出しを開けて、しまっておいた新聞記事を取り出した。櫻井が入院している時に見つけた失踪宣告のことを書いた記事である。野川には考えていないと言ったが、心の中では気になっていた。
記事の中の写真には、橋にたたずむ男性の姿が映っている。手摺りに両肘をつき、遠くを眺めている表情はどことなく哀しげである。櫻井の父親も、こうしてどこかで息子のことを思い出し、考えてくれているのだろうか。
と言った。櫻井も頷いた。
「ほら、見て! 女の子がアイスクリームの先っぽを落とすのを見て、お父さんが代わりに自分のをあげてるわ」
「ああ」
「それに洋服に付いた汚れも綺麗に拭き取っているし、優しいお父さんだと思わない?」
「ああ」
「父は私が小学校六年の時に亡くなったけど、小さい頃の父はあんな風に優しかったわ。今でも思い出すことがあるの」
「うん」
「何よ、さっきから気のない返事ばかりしてー」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
櫻井は、必死に言い訳を考えようとしたが浮かんでこなかった。
今思うと、父親のことを話している時の智美の表情を見ていたのだと思う。父親…か。櫻井は、急に思い出したように別の引き出しを開けて、しまっておいた新聞記事を取り出した。櫻井が入院している時に見つけた失踪宣告のことを書いた記事である。野川には考えていないと言ったが、心の中では気になっていた。
記事の中の写真には、橋にたたずむ男性の姿が映っている。手摺りに両肘をつき、遠くを眺めている表情はどことなく哀しげである。櫻井の父親も、こうしてどこかで息子のことを思い出し、考えてくれているのだろうか。
死者の結婚式 49-2
直径二センチぐらいの丸い鈴の上の部分に、赤い紐が付いている。その紐を持ちながら、小さく振ってみる。暗く沈んだ鈍い音色がした。その灰色の響きは、櫻井を一層暗い気持ちにさせた。
ふと見ると、側面に小さく漢字で「若松」という刻印があった。これは、何を意味するのだろう。智美が殺されたことと何か関係があるのだろうか。櫻井は、興味を持った。
そしてこの「若松」という刻印の表面を手で触りながら、智美との付き合いを思い出していた。
夏の季節に二人で美術館へ絵を観に行った時のことだった。駅の改札口で待ち合わせた後、広い公園内を歩いて美術館に向かった。
日陰のベンチに腰掛けて涼をとっている老人の姿やキャッチボールをしている子供達の笑顔が見られた。売店の横にあるテラスでは、テーブルを挟んで親子が座り、アイスクリームを舐めていた。
夫婦と子供二人。子供は、三歳から四歳ぐらいだろうか。じっと目を注いでいた智美が、
ふと見ると、側面に小さく漢字で「若松」という刻印があった。これは、何を意味するのだろう。智美が殺されたことと何か関係があるのだろうか。櫻井は、興味を持った。
そしてこの「若松」という刻印の表面を手で触りながら、智美との付き合いを思い出していた。
夏の季節に二人で美術館へ絵を観に行った時のことだった。駅の改札口で待ち合わせた後、広い公園内を歩いて美術館に向かった。
日陰のベンチに腰掛けて涼をとっている老人の姿やキャッチボールをしている子供達の笑顔が見られた。売店の横にあるテラスでは、テーブルを挟んで親子が座り、アイスクリームを舐めていた。
夫婦と子供二人。子供は、三歳から四歳ぐらいだろうか。じっと目を注いでいた智美が、
死者の結婚式 49-1
3
その夜、櫻井はアパートの一室でベッドの上に横になりながら、殺された智美のことをいろいろと考えていた。
あの電話の後、智美は避難したわけだから、それを目撃した同僚がいるはずである。最後に智美を見かけた同僚に聞けば何かわかるかもしれない。ひょっとしたら、上村と同じように避難している途中で何かの異変に気付き、同僚と別行動を取ったのかもしれない。そして偶然、放火した犯人と遭遇し、顔を見られたために殺された――。
だが智美は屋根の上で倒れていたわけだから、犯人は死体を移動させたということになる。何故、そんなことをしたのだろうか。それに智美だって犯人にみすみす殺されるとは思えない。叫び声を上げるなり、何らかの抵抗をしたはずだ。
屋根の上に落ちていたディスクは、智美が抵抗した証として犯人に投げたのではないのか。もしそうなら、何故、智美はそのディスクを持っていたのだろうか。それに、その時上村は、何をしていたのだろう。
何の物音も聞かなかったと言ったが、犯人と智美との争いごとを本当に知らなかったのだろうか。花を届けに来た男は、何か関係があるのだろうか。
しかし、と櫻井の中で別の声がいった。犯人は、本当に最初から俺だけじゃなくて智美も殺害したかったのだろうか。
そのために放火をしたということか。櫻井は、不意にベッドから起き上がり、机の引き出しを開けた。そこには、智美の傍らに落ちていた鈴が入っていた。
その夜、櫻井はアパートの一室でベッドの上に横になりながら、殺された智美のことをいろいろと考えていた。
あの電話の後、智美は避難したわけだから、それを目撃した同僚がいるはずである。最後に智美を見かけた同僚に聞けば何かわかるかもしれない。ひょっとしたら、上村と同じように避難している途中で何かの異変に気付き、同僚と別行動を取ったのかもしれない。そして偶然、放火した犯人と遭遇し、顔を見られたために殺された――。
だが智美は屋根の上で倒れていたわけだから、犯人は死体を移動させたということになる。何故、そんなことをしたのだろうか。それに智美だって犯人にみすみす殺されるとは思えない。叫び声を上げるなり、何らかの抵抗をしたはずだ。
屋根の上に落ちていたディスクは、智美が抵抗した証として犯人に投げたのではないのか。もしそうなら、何故、智美はそのディスクを持っていたのだろうか。それに、その時上村は、何をしていたのだろう。
何の物音も聞かなかったと言ったが、犯人と智美との争いごとを本当に知らなかったのだろうか。花を届けに来た男は、何か関係があるのだろうか。
しかし、と櫻井の中で別の声がいった。犯人は、本当に最初から俺だけじゃなくて智美も殺害したかったのだろうか。
そのために放火をしたということか。櫻井は、不意にベッドから起き上がり、机の引き出しを開けた。そこには、智美の傍らに落ちていた鈴が入っていた。
死者の結婚式 48-2
「どういう意味ですか?」
「おそらく犯人の衣服にはブレーキオイルが付着していて、逃げる時にドアをこすったんだと思います。問題は、何故、犯人は駐車場から外へ直接逃げなかったのだろうかということなんです」
「すぐに見つかってしまうと考えたからではないんですか」
「外へ逃げるのであれば、どこから逃げても同じことだと思いますがね」
「まさか刑事さんは、社内の人間の犯行だと言うんですか」
「まだ断定した訳じゃありません。一つの可能性を言っただけです」
「――」
「それと今までの話を聞いていると、どうも殺された一ノ瀬さんと櫻井さんの交通事件とは、何か関係があるように思えてくるんですがね」
「――」
櫻井は、腕を組みながら考え込んでしまった。二人を殺して得をする奴が社内にいるということか。それほどの利害関係が俺と犯人との間にはあるということになるが、櫻井には、思い当たらなかった。
二人の刑事は、何か思い出したら連絡して下さい、と言い残して部屋から出て行った。
「おそらく犯人の衣服にはブレーキオイルが付着していて、逃げる時にドアをこすったんだと思います。問題は、何故、犯人は駐車場から外へ直接逃げなかったのだろうかということなんです」
「すぐに見つかってしまうと考えたからではないんですか」
「外へ逃げるのであれば、どこから逃げても同じことだと思いますがね」
「まさか刑事さんは、社内の人間の犯行だと言うんですか」
「まだ断定した訳じゃありません。一つの可能性を言っただけです」
「――」
「それと今までの話を聞いていると、どうも殺された一ノ瀬さんと櫻井さんの交通事件とは、何か関係があるように思えてくるんですがね」
「――」
櫻井は、腕を組みながら考え込んでしまった。二人を殺して得をする奴が社内にいるということか。それほどの利害関係が俺と犯人との間にはあるということになるが、櫻井には、思い当たらなかった。
二人の刑事は、何か思い出したら連絡して下さい、と言い残して部屋から出て行った。
死者の結婚式 48-1
した。保科は、またライターを鳴らし始めた。カチカチと鳴らしながら黙って聞いていたが、
「すると櫻井さんは、その人物に心当たりはないと言うんですね」
「ええ、ありません」
「私には、被害者の死と何か関係があるように思えるんです。櫻井さんが屋根の上に倒れている被害者を発見したのは五時前です。犯行があった時刻のことを考えると、上村さんが犯人と遭遇していてもおかしくはないんですがね。櫻井さんは、本当に誰にも会わなかったんですか? もしかしたら、被害者を殺した犯人だったかもしれないんですよ」
「同じことを何度も言わせないで下さいよ。まさか、誰だって一ノ瀬さんが殺されているなんて思わないでしょう。とにかく探すのに一生懸命でしたから…」
「そうですか。」
「刑事さんの話を聞いていて、一つ妙なことに気付いたんですが、防水スプレーを使って殺そうとした犯人が、何故、またわざわざコンバラトキシンの入った水を飲ませて殺そうとしたんでしょうか。防水スプレーだけでも充分だったはずですよね」
「確実に被害者を殺したかったんだと思います。防水スプレーの場合だと、発見が早ければ助かることだってありますから」
「人から恨まれるようなことはなかったのに、何故、こんなことに…」
「お気持ちはわかります。我々も犯人逮捕に全力を尽くしますので、協力して下さい。ところで、その…交通事件のほうなんですが、実は車のブレーキオイルと同じ成分が、駐車場に通じるドアに付着していたことがわかったんです。」
「すると櫻井さんは、その人物に心当たりはないと言うんですね」
「ええ、ありません」
「私には、被害者の死と何か関係があるように思えるんです。櫻井さんが屋根の上に倒れている被害者を発見したのは五時前です。犯行があった時刻のことを考えると、上村さんが犯人と遭遇していてもおかしくはないんですがね。櫻井さんは、本当に誰にも会わなかったんですか? もしかしたら、被害者を殺した犯人だったかもしれないんですよ」
「同じことを何度も言わせないで下さいよ。まさか、誰だって一ノ瀬さんが殺されているなんて思わないでしょう。とにかく探すのに一生懸命でしたから…」
「そうですか。」
「刑事さんの話を聞いていて、一つ妙なことに気付いたんですが、防水スプレーを使って殺そうとした犯人が、何故、またわざわざコンバラトキシンの入った水を飲ませて殺そうとしたんでしょうか。防水スプレーだけでも充分だったはずですよね」
「確実に被害者を殺したかったんだと思います。防水スプレーの場合だと、発見が早ければ助かることだってありますから」
「人から恨まれるようなことはなかったのに、何故、こんなことに…」
「お気持ちはわかります。我々も犯人逮捕に全力を尽くしますので、協力して下さい。ところで、その…交通事件のほうなんですが、実は車のブレーキオイルと同じ成分が、駐車場に通じるドアに付着していたことがわかったんです。」
死者の結婚式 47-2
(そうだ、あの時の花だ! 花屋が届けに来た花の中にスズランがあったのだ。それに…、と櫻井は眉をひそめた。智美は、届けに来たあの男のことを知っているような様子だった。どういう知り合いなのだろう)
「何か思い出されましたか?」
保科が言った。
「あっ、いえ。電話で早く避難するようにと話したことが最後になってしまいました。何故、殺されたのか、未だに信じられない気持ちです」
「お気持ちはわかります。皆さんの話を聞きましたが、どうも曖昧な点が多いですね。被害者に何か変わった様子はありませんでしたか?」
「別に普段と同じでしたが…。ただ、今日は仕事が終わったら一緒に帰る約束をしていました。最近、誰かに跡をつけられているような気がすると言うので、用心のために一緒に帰ることにしたんです」
それを聞いていた保科の眼が、一瞬、鋭く光った。
「ほう、もう少し詳しく話してもらえませんか」
「話すほどのことじゃないと思います。跡をつけていた人物をはっきり目撃したわけでもないし、ただ、何となくそんな気がするというだけのことですから…」
だが保科は、いいから話して下さい、と言うので、櫻井は智美から聞いたことを全て話
「何か思い出されましたか?」
保科が言った。
「あっ、いえ。電話で早く避難するようにと話したことが最後になってしまいました。何故、殺されたのか、未だに信じられない気持ちです」
「お気持ちはわかります。皆さんの話を聞きましたが、どうも曖昧な点が多いですね。被害者に何か変わった様子はありませんでしたか?」
「別に普段と同じでしたが…。ただ、今日は仕事が終わったら一緒に帰る約束をしていました。最近、誰かに跡をつけられているような気がすると言うので、用心のために一緒に帰ることにしたんです」
それを聞いていた保科の眼が、一瞬、鋭く光った。
「ほう、もう少し詳しく話してもらえませんか」
「話すほどのことじゃないと思います。跡をつけていた人物をはっきり目撃したわけでもないし、ただ、何となくそんな気がするというだけのことですから…」
だが保科は、いいから話して下さい、と言うので、櫻井は智美から聞いたことを全て話
死者の結婚式 47-1
「コンバラトキシンという成分をご存じですか」
「コンバラトキシン?」
「あまりピンと来ないかもしれませんが、この成分は水に溶けやすく、たった耳掻き一杯の量で大人を死に追いやることができ、青酸カリやヒ素よりも猛毒です」
「そんな物質が、何故、智美の身体から?」
「この成分は、スズランという植物に多く含まれているんです」
「スズラン?」
「ええ。五月に白い花を咲かせる、あのスズランのことです。コンバラトキシンを含んでいるのは花や葉だけではありません。花を活けた花瓶の水を飲んだだけで死ぬことが確認されています。殺害現場近くに花瓶が転がっていましたが、恐らく犯人は、被害者に飲ませたんだと思います」
「――」
櫻井は、智美の言った言葉を思い出していた。あの時智美は、スズ…と言いかけて気を失ったが、てっきり傍に落ちていた鈴のことかと思っていた。だが、スズランのことを言いたかったのではないか。
ヨーロッパの結婚式では、花嫁がブーケやベールの髪飾りにそっとしのばせる伝統があり、うつむいて咲く姿は可憐である。智美は死の直前に、その花を目にしたに違いない。
しかし、犯人はスズランをどこから持ってきたのだろうか。その時、櫻井の中で一つの声が言った。
「コンバラトキシン?」
「あまりピンと来ないかもしれませんが、この成分は水に溶けやすく、たった耳掻き一杯の量で大人を死に追いやることができ、青酸カリやヒ素よりも猛毒です」
「そんな物質が、何故、智美の身体から?」
「この成分は、スズランという植物に多く含まれているんです」
「スズラン?」
「ええ。五月に白い花を咲かせる、あのスズランのことです。コンバラトキシンを含んでいるのは花や葉だけではありません。花を活けた花瓶の水を飲んだだけで死ぬことが確認されています。殺害現場近くに花瓶が転がっていましたが、恐らく犯人は、被害者に飲ませたんだと思います」
「――」
櫻井は、智美の言った言葉を思い出していた。あの時智美は、スズ…と言いかけて気を失ったが、てっきり傍に落ちていた鈴のことかと思っていた。だが、スズランのことを言いたかったのではないか。
ヨーロッパの結婚式では、花嫁がブーケやベールの髪飾りにそっとしのばせる伝統があり、うつむいて咲く姿は可憐である。智美は死の直前に、その花を目にしたに違いない。
しかし、犯人はスズランをどこから持ってきたのだろうか。その時、櫻井の中で一つの声が言った。
死者の結婚式 46-2
「肺胞を調べたところ、フッ素樹脂が検出されました。十ミクロンという非常に小さな粒子のものが入り込むと、毛細血管から水が滲み出すんです」
「――」
「納得のいかない顔をされているようですが、おそらく犯人は、防水スプレーを使ったんじゃないかと思います」
「防水スプレー?」
「そうです。それを間違って使用したために、過去に死亡事故が起きています。屋外での使用が義務付けられているのに、屋内で使用したんです。防水スプレーは、換気を充分にしても駄目で、六畳の部屋で二百ミリリットル使用しただけで、死亡した例があります」
「ほんとですか!」
「ただ、ちょっと死亡するまでに時間がかかりますから、犯人は、防水スプレーを被害者の顔にかけた後、しばらくして被害者は急に倒れたんだと思います」
「計画的だったということですか?」
「何とも言えません」
「毒物のほうは、どうなんですか? さっきの話では毒物反応があったということでしたが…」
「――」
「納得のいかない顔をされているようですが、おそらく犯人は、防水スプレーを使ったんじゃないかと思います」
「防水スプレー?」
「そうです。それを間違って使用したために、過去に死亡事故が起きています。屋外での使用が義務付けられているのに、屋内で使用したんです。防水スプレーは、換気を充分にしても駄目で、六畳の部屋で二百ミリリットル使用しただけで、死亡した例があります」
「ほんとですか!」
「ただ、ちょっと死亡するまでに時間がかかりますから、犯人は、防水スプレーを被害者の顔にかけた後、しばらくして被害者は急に倒れたんだと思います」
「計画的だったということですか?」
「何とも言えません」
「毒物のほうは、どうなんですか? さっきの話では毒物反応があったということでしたが…」
死者の結婚式 46-1
とがあった。二人が席を立って引き揚げる前に聞いておこうと思った。
「発見された放射性物質のことで、刑事さんに聞きたいことがあるのですが、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
「配達先は、弊社宛になっていましたか? それともどこかの会社と間違えて配達されたものなんでしょうか」
「運送業者が間違えて配達したようです。聞くところによると過去にもそういうことがあったそうで、特に今回、非常に迷惑をかけたと言って謝っていました」
「そうでしょうね。付近の住民にまで避難勧告が出るほどの騒ぎでしたから」
と言って櫻井は苦笑したが、何かスッキリしなかった。この運送業者のことと言い、上村や桐島の話には曖昧なところが多い。保科は、
「お忙しい中、協力して頂いてありがとうございます」
と言うと、手を広げて部屋の出口へと促した。皆が部屋から出て行った後、保科は櫻井だけを引き留めて言った。
「普通の火災なら我々が出向くことはないのですが、殺人事件が絡んでいるとなると話は別です。昨日は交通事件のことでお話したいことがあると言って、そのつもりで伺う予定でしたが、すっかり順序が逆になってしまいました」
「ええ。でも僕には、一ノ瀬さんが殺されたことのほうが重大なんです。さっきの話で肺水腫による呼吸困難ということでしたが、一体、どういうことなんでしょうか? 一酸化炭素中毒ならわかりますが…」
「発見された放射性物質のことで、刑事さんに聞きたいことがあるのですが、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
「配達先は、弊社宛になっていましたか? それともどこかの会社と間違えて配達されたものなんでしょうか」
「運送業者が間違えて配達したようです。聞くところによると過去にもそういうことがあったそうで、特に今回、非常に迷惑をかけたと言って謝っていました」
「そうでしょうね。付近の住民にまで避難勧告が出るほどの騒ぎでしたから」
と言って櫻井は苦笑したが、何かスッキリしなかった。この運送業者のことと言い、上村や桐島の話には曖昧なところが多い。保科は、
「お忙しい中、協力して頂いてありがとうございます」
と言うと、手を広げて部屋の出口へと促した。皆が部屋から出て行った後、保科は櫻井だけを引き留めて言った。
「普通の火災なら我々が出向くことはないのですが、殺人事件が絡んでいるとなると話は別です。昨日は交通事件のことでお話したいことがあると言って、そのつもりで伺う予定でしたが、すっかり順序が逆になってしまいました」
「ええ。でも僕には、一ノ瀬さんが殺されたことのほうが重大なんです。さっきの話で肺水腫による呼吸困難ということでしたが、一体、どういうことなんでしょうか? 一酸化炭素中毒ならわかりますが…」
死者の結婚式 45-2
「しかし、こいつがヘマさえしなかったら、こんなことにはならなかったんだ」
「いいんだよ」
櫻井は言った。
「誤解されないために言っておくが、一ノ瀬さんが殺された時間、僕は避難場所にいたんだ。それはあの場所にいた人達が証明してくれるだろうし、それに僕には一ノ瀬さんを殺す動機もないよ」
桐島が言った。保科は、三人のやりとりを黙って聞いていたが、
「芹沢さんにお訊きしますが、七階に降りてから、すぐ避難されましたか」
と言った。
「ええ。後片付けをして、すぐ避難しました。社員の方々と一緒でしたので、何なら聞いて頂いても結構です」
「その時に、上村さんの言う、何か物音を聞いたということはありませんでしたか?」
「全く気が付きませんでした」
「ガラスの割れる音は?」
「何も」
「そうですか」
そう言うと保科は、ライターを鳴らすのを止めた。そして組んでいた脚を解くと、江原に見えるように自分の腕時計の表面を叩くしぐさをした。櫻井には、一つだけ聞きたいこ
「いいんだよ」
櫻井は言った。
「誤解されないために言っておくが、一ノ瀬さんが殺された時間、僕は避難場所にいたんだ。それはあの場所にいた人達が証明してくれるだろうし、それに僕には一ノ瀬さんを殺す動機もないよ」
桐島が言った。保科は、三人のやりとりを黙って聞いていたが、
「芹沢さんにお訊きしますが、七階に降りてから、すぐ避難されましたか」
と言った。
「ええ。後片付けをして、すぐ避難しました。社員の方々と一緒でしたので、何なら聞いて頂いても結構です」
「その時に、上村さんの言う、何か物音を聞いたということはありませんでしたか?」
「全く気が付きませんでした」
「ガラスの割れる音は?」
「何も」
「そうですか」
そう言うと保科は、ライターを鳴らすのを止めた。そして組んでいた脚を解くと、江原に見えるように自分の腕時計の表面を叩くしぐさをした。櫻井には、一つだけ聞きたいこ
死者の結婚式 45-1
「僕にもわからないんだ。あの時、必要なディスクは間違いなく全部運んだつもりだし、避難する途中で階段から落としてしまったのは自分の不注意だけど、そんなこと有り得ないよ」
「そんな馬鹿なことがあるかよ。ラベルのデータ月だって同じだし、階段以外にもどこかで落として気が付かなかっただけじゃないのかい。そうでなければ説明が付かないじゃないか!」
野川は、むっとした顔をした。桐島のことを信用していない口調である。
「君の言っていることが本当だとすると、あの時、正副、両方のディスクを運んだのか、それともどちらか片方だけ運んだのか?」
上村が訊いた。
「両方なんて無理ですよ。それに、はっきり言って、両方揃っていたかどうかも覚えてないんです。言い訳するつもりはないけど、自分なりに必死でしたからね」
「なんでそんな大事なことを覚えてないんだ。一ノ瀬さんを殺した犯人につながる重要な手がかりだったかもしれないんだぞ。この野郎、早く思い出せー」
思わず野川は、桐島の襟首を掴もうとした。
「よさないか。気持ちはありがたいが、桐島君を責めても仕方がないさ」
その時、櫻井が止めに入らなかったら、間違いなく野川は桐島をぶん殴っていたかもしれない。
「そんな馬鹿なことがあるかよ。ラベルのデータ月だって同じだし、階段以外にもどこかで落として気が付かなかっただけじゃないのかい。そうでなければ説明が付かないじゃないか!」
野川は、むっとした顔をした。桐島のことを信用していない口調である。
「君の言っていることが本当だとすると、あの時、正副、両方のディスクを運んだのか、それともどちらか片方だけ運んだのか?」
上村が訊いた。
「両方なんて無理ですよ。それに、はっきり言って、両方揃っていたかどうかも覚えてないんです。言い訳するつもりはないけど、自分なりに必死でしたからね」
「なんでそんな大事なことを覚えてないんだ。一ノ瀬さんを殺した犯人につながる重要な手がかりだったかもしれないんだぞ。この野郎、早く思い出せー」
思わず野川は、桐島の襟首を掴もうとした。
「よさないか。気持ちはありがたいが、桐島君を責めても仕方がないさ」
その時、櫻井が止めに入らなかったら、間違いなく野川は桐島をぶん殴っていたかもしれない。

